前回は、今の日本人がどのくらい心理的に病んでいるかということを述べた。今回は心理的健康について考えてみたい。
心理的に健康な人の定義はいくつかあるだろう。現実との接触、心理的統合性等、いろいろの人がいろいろのことを言う。ただ肉体的な健康ほど皆の合意が得られているわけではない。
ふれあいが心の健康につながる
私は、心理的に健康な人とは、人と気持ちがふれあえる人だと思っている。
では、気持ちがふれあっているとはどういうことであろうか。例えば、ふれあっている家族とは、一人ひとりがバラバラなことをしていても、何となくまとまりがある家族である。お互いに関心がある。
犬とふれあっている人は、犬の鳴き声で、犬が何を求めているかがすぐに分かる。水を飲みたがっているのか、家の外に出せと言っているのか、鳴き声で犬の求めていることが分かる。
赤ん坊とふれあっている母は、赤ん坊の泣き声で、赤ん坊が何を求めているか分かる。赤ん坊がイライラして泣いていると、ふれあっている母親は「あー、おむつが濡れて泣いているな」と分かる。「あー、熱があるのかな」と分かる。そして額に手をあててみる。あるいは「あー、歯が出てきてイライラしているな」と分かる。そこでおしゃぶりを渡してみる。これが母親の愛情である。しかしふれあっていない母親は「何で泣くの?」と自分も一緒にイライラする。どちらの母親で育つかで、子供の心理的成長は全く違ってくる。
無関心が子供を殺す
ふれあっている人は、相手への関心があるが、相手に自分をよく見せようという気持ちは少ない。相手への関心があるというのは、例えば、今日の相手の顔色に自然と注意がいくことである。「今日はこの人は顔色が悪い」「この人は疲れているのだ」。ふれあっている人は、そうしたことがすぐに分かる。そうした相手に対する関心は凄い。「この人は今日は好きなプリンを食べない、からだの調子が悪いのではないか」。ふれあっている人は、相手に対するそうした関心が強い。相手からよく思ってもらおうとする気持ちは少ないが、相手のことが常に気になる。
例えば、自殺した子供が、よく周囲から「変化に気がつかなかった」と言われる。自殺したときに「思い当たることがない」と周囲の人から言われる。つまり自殺する子供は周囲の人々から関心を持たれていなかったのである。友人と騒ぎながらも、誰からも関心を持たれていなかった。ふれあっている友人がいなかった。
そういう子は、小さいころ、「頭が痛い」と言う前に額に手を当ててくれる母親がいなかったのではなかろうか。関心を持たれていないのだから、小さいころ泣いた時に「なぜこの子は泣くのだろう」と原因を考えてもらえなかった。考える前に、「おまえは弱虫だ」と親から言われたのではなかろうか。
怒った時に「この子はなぜ怒ったのだろう」と考えてくれる親の元で育った子供と、不当に扱われても怒りさえも表現できないで育った子供とでは、全く違った世界で育っているのである。子供が言うことを聞かない時に「この子はなぜ言うことを聞かないのだろう」と、その子の反抗的な言動の原因を考えてくれる親がいる。それに対して、言うことを聞かない子供に、ただ怒りをぶつける親もいる。
言葉だけでなく気持ちを理解する
ある子供が家に帰って「皆がぼくのことをいじめるんだよ」と言った。その言葉に反応して、すぐに学校にとんで行く親もいるだろう。それが正しい時もある。しかし子供は「皆がぼくのことをいじめるんだよ」と言って、「でもぼくは頑張ったんだ、すごいでしょ」と親に言いたくて、そう言う時もある。その時にはやはり「凄いねー、ぼくは強いんだねー」と言って欲しいのだろう。また苛(いじ)められた時の自分の悔しい気持ちを聞いて欲しいという時もあるだろう。もちろんいじめをとめてくれと訴えているときもあるだろう。それは子供の顔色で親が理解するものである。それを判断してくれる親と、子供の言葉だけしか理解しない親といる。すべて言葉通りにしか受け取らない親と、その言葉を言った子供の気持ちを考えてくれる親といるだろう。ふれあっている親子と、ふれあっていない親子の違いである。
「あの明るい子が」自殺するのはなぜか
自殺した後でよく「あの明るい子が…」と言われる。「あの明るい子が…」と新聞の見出しに出ることさえある。しかしその子の周囲では「今日のあいつの明るさは、何かおかしい」と誰も気がついていないのである。「どうもあいつの遊びは最近刹那的だ」というような類のことを周囲の誰も気がついていないのである。自殺する子供は自殺についての情報を集めたり、死をテーマにした音楽に関心を持ったり、突然の振る舞いの変化があったり、いろいろとサインがあるという。これらはアメリカの自殺防止の本などに書かれているサインである。しかしそのサインを周囲の人は誰も感づいてくれなかったのである。「そーねー、そーねー」といつも頷いてくれる人はいたかもしれないが、「なぜこいつはこのごろ、こんな話をするのだろうか?」と気がついてくれる人が周囲にいなかったということである。そのような関心を払ってくれる人がいなかったということであろう。
アメリカの大学のある心理学の教科書*に、「十代の自殺で、重要なのは家族との関係」と書かれている。つまり自殺する子は家族の誰からも関心を持たれていなかった、家族とのふれあいがなかったということであろう。
大切な家族のふれあい
ふれあいのある家族の年寄りは「入れ歯がねー」「この不況期だからねー」と話ができる。そんなことを言って馬鹿にされる心配がない。そしてそのとりとめのない話の中に満足を感じている。ふれあっている人達の間では「この人といると得だわ」とか「この人に自分のいいとこ見せよう」がない。
しかしふれあいのない家族の父親は、家族から馬鹿にされまいと虚勢を張る。父親が給料の高さを自慢する。「わー凄い」と家族の皆が言う。「家の改築でもするか」と父親が言う。「わー凄い」と家族の皆が言う。このような父親は、こう言うことで皆からの賞賛を得て自分の幼児的願望を満たしているのである。つまりこの父親は家族への関心がない。だから父親が高い給料で、改築されて立派な家の息子が自殺しても、おかしくないのである。息子は家族とふれあって、関心を持たれていないからである。ふれあっている人がいれば多くの困難は乗り越えられる。
ふれあいはエネルギーの源
また、ふれあっている人は、自分に利益をもたらさなくても、相手は自分にとって意味のある存在である。ふれあい、そのことがその人に心の満足をもたらしているからである。
ふれあっている人は、心の支えでもある。ふれあっている人は、喧嘩をしても相手の幸せを願っている。 ふれあっている人に対しては、言いづらいことが少ない。ノーの時には躊躇なくノーと言える。喧嘩をしても別れの不安がない。相手に無理して合わせる必要がない。頼み事を断わる時に見捨てられる不安や、こじれる心配がない。このような関係がふれあっている関係である。だからふれあいはエネルギーの源なのである。元気のない人はふれあっている人がいない。
http://www.net-dream.jp
心理的に健康な人の定義はいくつかあるだろう。現実との接触、心理的統合性等、いろいろの人がいろいろのことを言う。ただ肉体的な健康ほど皆の合意が得られているわけではない。
ふれあいが心の健康につながる
私は、心理的に健康な人とは、人と気持ちがふれあえる人だと思っている。
では、気持ちがふれあっているとはどういうことであろうか。例えば、ふれあっている家族とは、一人ひとりがバラバラなことをしていても、何となくまとまりがある家族である。お互いに関心がある。
犬とふれあっている人は、犬の鳴き声で、犬が何を求めているかがすぐに分かる。水を飲みたがっているのか、家の外に出せと言っているのか、鳴き声で犬の求めていることが分かる。
赤ん坊とふれあっている母は、赤ん坊の泣き声で、赤ん坊が何を求めているか分かる。赤ん坊がイライラして泣いていると、ふれあっている母親は「あー、おむつが濡れて泣いているな」と分かる。「あー、熱があるのかな」と分かる。そして額に手をあててみる。あるいは「あー、歯が出てきてイライラしているな」と分かる。そこでおしゃぶりを渡してみる。これが母親の愛情である。しかしふれあっていない母親は「何で泣くの?」と自分も一緒にイライラする。どちらの母親で育つかで、子供の心理的成長は全く違ってくる。
無関心が子供を殺す
ふれあっている人は、相手への関心があるが、相手に自分をよく見せようという気持ちは少ない。相手への関心があるというのは、例えば、今日の相手の顔色に自然と注意がいくことである。「今日はこの人は顔色が悪い」「この人は疲れているのだ」。ふれあっている人は、そうしたことがすぐに分かる。そうした相手に対する関心は凄い。「この人は今日は好きなプリンを食べない、からだの調子が悪いのではないか」。ふれあっている人は、相手に対するそうした関心が強い。相手からよく思ってもらおうとする気持ちは少ないが、相手のことが常に気になる。
例えば、自殺した子供が、よく周囲から「変化に気がつかなかった」と言われる。自殺したときに「思い当たることがない」と周囲の人から言われる。つまり自殺する子供は周囲の人々から関心を持たれていなかったのである。友人と騒ぎながらも、誰からも関心を持たれていなかった。ふれあっている友人がいなかった。
そういう子は、小さいころ、「頭が痛い」と言う前に額に手を当ててくれる母親がいなかったのではなかろうか。関心を持たれていないのだから、小さいころ泣いた時に「なぜこの子は泣くのだろう」と原因を考えてもらえなかった。考える前に、「おまえは弱虫だ」と親から言われたのではなかろうか。
怒った時に「この子はなぜ怒ったのだろう」と考えてくれる親の元で育った子供と、不当に扱われても怒りさえも表現できないで育った子供とでは、全く違った世界で育っているのである。子供が言うことを聞かない時に「この子はなぜ言うことを聞かないのだろう」と、その子の反抗的な言動の原因を考えてくれる親がいる。それに対して、言うことを聞かない子供に、ただ怒りをぶつける親もいる。
言葉だけでなく気持ちを理解する
ある子供が家に帰って「皆がぼくのことをいじめるんだよ」と言った。その言葉に反応して、すぐに学校にとんで行く親もいるだろう。それが正しい時もある。しかし子供は「皆がぼくのことをいじめるんだよ」と言って、「でもぼくは頑張ったんだ、すごいでしょ」と親に言いたくて、そう言う時もある。その時にはやはり「凄いねー、ぼくは強いんだねー」と言って欲しいのだろう。また苛(いじ)められた時の自分の悔しい気持ちを聞いて欲しいという時もあるだろう。もちろんいじめをとめてくれと訴えているときもあるだろう。それは子供の顔色で親が理解するものである。それを判断してくれる親と、子供の言葉だけしか理解しない親といる。すべて言葉通りにしか受け取らない親と、その言葉を言った子供の気持ちを考えてくれる親といるだろう。ふれあっている親子と、ふれあっていない親子の違いである。
「あの明るい子が」自殺するのはなぜか
自殺した後でよく「あの明るい子が…」と言われる。「あの明るい子が…」と新聞の見出しに出ることさえある。しかしその子の周囲では「今日のあいつの明るさは、何かおかしい」と誰も気がついていないのである。「どうもあいつの遊びは最近刹那的だ」というような類のことを周囲の誰も気がついていないのである。自殺する子供は自殺についての情報を集めたり、死をテーマにした音楽に関心を持ったり、突然の振る舞いの変化があったり、いろいろとサインがあるという。これらはアメリカの自殺防止の本などに書かれているサインである。しかしそのサインを周囲の人は誰も感づいてくれなかったのである。「そーねー、そーねー」といつも頷いてくれる人はいたかもしれないが、「なぜこいつはこのごろ、こんな話をするのだろうか?」と気がついてくれる人が周囲にいなかったということである。そのような関心を払ってくれる人がいなかったということであろう。
アメリカの大学のある心理学の教科書*に、「十代の自殺で、重要なのは家族との関係」と書かれている。つまり自殺する子は家族の誰からも関心を持たれていなかった、家族とのふれあいがなかったということであろう。
大切な家族のふれあい
ふれあいのある家族の年寄りは「入れ歯がねー」「この不況期だからねー」と話ができる。そんなことを言って馬鹿にされる心配がない。そしてそのとりとめのない話の中に満足を感じている。ふれあっている人達の間では「この人といると得だわ」とか「この人に自分のいいとこ見せよう」がない。
しかしふれあいのない家族の父親は、家族から馬鹿にされまいと虚勢を張る。父親が給料の高さを自慢する。「わー凄い」と家族の皆が言う。「家の改築でもするか」と父親が言う。「わー凄い」と家族の皆が言う。このような父親は、こう言うことで皆からの賞賛を得て自分の幼児的願望を満たしているのである。つまりこの父親は家族への関心がない。だから父親が高い給料で、改築されて立派な家の息子が自殺しても、おかしくないのである。息子は家族とふれあって、関心を持たれていないからである。ふれあっている人がいれば多くの困難は乗り越えられる。
ふれあいはエネルギーの源
また、ふれあっている人は、自分に利益をもたらさなくても、相手は自分にとって意味のある存在である。ふれあい、そのことがその人に心の満足をもたらしているからである。
ふれあっている人は、心の支えでもある。ふれあっている人は、喧嘩をしても相手の幸せを願っている。 ふれあっている人に対しては、言いづらいことが少ない。ノーの時には躊躇なくノーと言える。喧嘩をしても別れの不安がない。相手に無理して合わせる必要がない。頼み事を断わる時に見捨てられる不安や、こじれる心配がない。このような関係がふれあっている関係である。だからふれあいはエネルギーの源なのである。元気のない人はふれあっている人がいない。
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